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実存的欲求不満

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「つまらない素人」の時代

 

「頭」で判断してしまう傾向の人々が陥りやすい罠があります。作品や演奏そのものではなく、そこに付随してくる二次的な情報に惑わされて、判断が甘くなるということです。

 

例えば、コンクールで優勝した人だから・・・といった来歴や、売れているから、テレビによく出ている人だから・・・といった知名度による判断などは、作品やパフォーマンスそのものへの判断を大きく狂わせる要因の一つです。

 

特に、コンクールなどで評価されたものは、専門家が高く評価したのだからきっと素晴らしいに違いない、と思われる方も少なくないでしょうが、これがはなはだ信用のならないものであることを、私たちは知っておかなければなりません。

 

夏目漱石の「素人と黒人」というエッセイには、「黒人(玄人)」つまり専門家の判断に惑わされてはならない、ということがきっぱりと述べられています。

 

 

良寛上人は嫌いなもののうちに詩人の詩と書家の書を平生から数えていた。詩人の詩、書家の書といえば、本職という意味から見て、これほど立派なものはないはずである。それを嫌う上人の見地は、黒人の臭をにくむ純粋でナイーヴな素人の品格から出ている。心の純なところ、気の精なるあたり、そこにすれからしにならない素人の尊さが潜んでいる。腹の空しいくせに腕で掻き回している悪辣がない。だから素人は拙を隠す技巧を有しないだけでも黒人よりもましだといわなければならない。自己には真面目に表現の要求があるということが、芸術の本体を構成する第一の資格である。

 

●素人はもとより部分的の研究なり観察に欠けている。その代り大きな輪郭に対しての第一印象は、この輪郭のなかで金魚のようにあぶあぶ浮いている黒人よりは鮮やかに把捉できる。黒人のように細かい鋭さは得られないかもしれないが、ある芸術全体を一眼に握る力において黒人よりも溌剌としている。富士山の全体は富士を離れたときにのみはっきりと眺められるのである。

 

 

 

「現代○○」が世界を席巻した現象も、「黒人」たちが大局を見失って、頭でっかちな先鋭化に暴走してしまったことによるものでした。しかし、真に良質なものは、たとえ素人であってもわかるはずのものだ、いや、むしろ素人の方が妙な先入観がない分、判断が曇らないだろうということを漱石は言っているのです。

 

ただし、ここで漱石の言う「素人」とは、「心」の純粋な感性が自由に働いている人のことであって、いくら素人でも、その人が、「わかる/わからない」「知っている/知らない」という「頭」レベルで安易に判定を下したり、二次的情報に左右されてしまうような場合には、その判断はまったく信用できないものとなります。漱石はこれを「つまらない素人」と呼び、「つまらない素人になれば局部も輪郭もめちゃめちゃで解らないのだから、そんな人々は自分の論ずる限りではないのである」と断じています。

 

「つまらない素人」とは、未知の優れた価値に目を開こうとしない閉じた精神の持ち主が、マスメディアに容易に煽られてしまうような人のことですが、これはムラ社会に典型的な人間像です。

 

彼らは、自分の慣れ親しんだ範疇を超えたものに対しては、その偏狭な価値観で「下らない!」と即断し、未知のものや歯が立たないものに自身が脅かされないように、それらの価値の切り下げを行う困った頑固さと、既存の権威や情報操作にあっけなく盲従してしまうという困った柔軟性を併せ持っています。

 

ちなみに最近では、この「つまらない素人」たちも、「難しいもの」の旗色が悪いという世間の風潮に見事に乗っかって、「いやあ、私なんかにはとても難しくて・・」という一見謙虚ともとれる表現をとりつつ対象の価値の切り下げを行うという、かなり巧妙な言い方をすることが増えているようです。

 

かつて「現代○○」によって深く植え付けられた「難解なもの」への不信が、反動として「わかりやすいもの」への過度な傾斜を生んだことはすでに述べましたが、別の言い方をすれば、「黒人」への信頼が失墜したことによって、逆に「素人」が活気づいたのだ、ということになるでしょう。

 

そのこと自体は、ある意味において歓迎すべきことだったと思われますが、これが皮肉にも「つまらない素人」たちに間違った自信を付与することにもなってしまいました。そこに浅薄なマーケティング原理も加わって、ただ「わかりやすい」「面白おかしい」だけの空疎なものが量産される結果となってしまった。そして、「つまらない素人」の偏狭な意見が世の中を席巻することになったのです。

 

そのような事情によって、現代に生きる私たちは「本物」にめぐり合うことが困難な環境に置かれてしまっているのですが、そんな中で私たちが「虚しさ」「つまらなさ」を感じてしまうのは、むしろ、至極真っ当なことだと言えるかもしれません。

 

 

 

●「満ち足りた空虚さ」とは ~実存的欲求不満~

 

40日間の断食で空腹だったキリストは、サタンによって「その石をパンに変えてみたらどうだ?」と誘惑されます。しかし、キリストは「人はパンのみにて生きるにあらず」と言ってこれをはねつけました。

 

一方、6年にわたって断食の修行をしていた仏陀は、これではただ心身が衰弱するだけで一向に悟りなど開けそうにもないと思い、村娘のスジャータから供されたミルク粥を食べることにしました。するとそのおかげもあって、仏陀はそれから間もなく悟りを得ることができました。

 

このように、同じ空腹状態でもキリストと仏陀とで、真逆の行動をとった逸話が残っているのはとても興味深いことです。

 

しかし、そもそも仏陀はある小国の王子だったけれども、外の世界が飢えや「生老病死」の苦しみに満ちていることを知って、それまでの何不自由ない裕福な生活と家族を捨て、修行の旅に出る決意をしたという経緯があります。その意味では、仏陀もやはり、「人はパンのみにて生きるにあらず」という思いが、宗教者としての出発点であったのだと言うことができるでしょう。

 

人間は、それでもやはり動物の一種であるのですから、飢えの問題を真っ先に解決しようとします。しかし、それがある程度満たされた時、人は、次に安全の欲求、所属の欲求、承認の欲求などに向かっていき、最後には高次の欲求である自己実現の欲求に向かいます。

 

これは、マズローという心理学者が唱えた「欲求段階説」の考え方ですが、フランクルはこれに対して、必ずしもそのような順番になっているわけではないと、指摘しています。

 

 

●ご存知のように、マズローは低次の欲求と高次の欲求とを区別して、低次の欲求を充足することは、そのものでだけ高次の欲求が充足され得る条件である、と言いました。彼は高次の欲求のうちに、意味への意志も数え入れ、そしてそれを「人間の原初的な動機づけ」とみなすところにまでも進んでいます。たしかに、このことは、人間が生きる意味を要求するようになるのは、彼の生活がうまくいっている場合にかぎる{「衣食足りて礼節を知る」}ということになります。しかしながら、これには、私たち---そしてとりわけ精神科医---には、最も具合が悪い場合にこそ欲求や生きる意味への問いが燃え上がるのを繰り返し観察する機会があるということが対立しているのです。私たちの患者たちの中の死にかけている人々はこのことを、強制収容所や捕虜収容所の生き残った人々と同様に、証明することができるのであります!

 

 

 

ややわかりにくいので整理しますと、マズローが「高次の欲求」として「意味への意志(生きる意味を求めるということ)」というフランクルの唱えた概念を重視してくれたのは有難いが、しかし、人は「低次の欲求」が満たされて初めて「高次の欲求」に向かうものだというマズローの考えには賛同できないとフランクルは言っているのです。フランクルは、精神科医としても強制収容所経験者としても、それは事実とは異なると主張します。つまり、人はたとえ「低次の欲求」が満たされていないような極限状態にあっても、むしろそれだからこそ「高次の欲求」である「意味への意志」を激しく求めるものなのだ、と言っているのです。

 

私はこの議論について、単純にどちらの主張が正しいのかと二者択一で考えるよりも、どちらにも、人間というものの真実が述べられていると考えるのが妥当だと思います。

 

マズローの言うような「低次から高次へ」という段階を経て初めて、人生の意味について考え始めることになる人々が少なくないことは事実ですし、一方、「低次の欲求」が満たされていないにもかかわらず「生きる意味を問う」ことを最優先に求める人がいることもまった真実であることも、数多くあります。

 

ですから、正確に言えば、欲求の段階を順次踏んだ後に「意味への意志」に目覚めることもあれば、「低次の欲求」が満たされない状況でも「意味への意志」を求める人もある、ということになるでしょう。これは、その人が生来どの程度の内省力を有しているのかによって、分かれるのではないかと思います。

 

この問題は、次のように考えてみれば、かなり整理がつくのではないでしょうか。

 

人は、「低次の欲求を満たすこと」にのみ意識が向かっているような状態では、それを満たすことがあたかも「生きる意味」であるかのように錯覚してしまうために、この段階では「意味への意志」は発動されない。しかし、人は、それが「満たされる可能性がない」という真に行き詰った状態に陥った時、あるいは「もう満たされている」ので、あえてそこに意識を向ける必要がなくなったような時に、初めて自身の「生き死に」、つまり「自分の生が限りあるものであること」が視野に入ってくる。そして、そこから必然的に「なぜ生きるのか」という実存的な問いが析出してくるのではないか、ということです。